「サクラダリセット」を読んだ

ある日、自宅に「サクラダリセット」が送られてきた。

貰ったからにはちゃんと感想を伝えないとなという気持ちになったのでこのブログを書いている。といってもまあ、各巻ごとの短い感想はTwitterで呟いたりしていたし、全体の感想を軽く書き散らすだけなので、新規性のある読みとかは期待しないでください。

 

まず印象に残ったのは能力でバトルしないこと。多くの読者にとっては「サクラダ」が先で「架見崎」が後なんだろうけど、僕は「架見崎」を先に読んでいたので驚いた。心理戦や実際に能力を行使した騙し合いも、結果としてそれは相手を交渉の席に着かせるため飛び道具であって(なのでエンタメ的な面白さは十分あった)能力によって雌雄が決することは一度もなかった。「サクラダ」にはむしろヴァイオレンスなものを忌避する意識が色濃かったように感じたから、箱庭世界をさらに拡張し、仮想現実的な空間を用意してまで異能バトルをやっている「架見崎」シリーズの見方が変わる気がする、適当に言っていますが。

話が逸れたが、「伝言が好きなの」という相麻菫の言葉が象徴するように、あるいは彼女がケイの幸せとは誰かと言葉を交わすことだと信じて疑わなかったように、対話とそれを通じた相互理解というのが作品、もっというと河野裕の軸にあるものだと感じた。河野裕のオタクじゃないから、真っ当なファンからするとそうじゃない!と言われるかもしれないけど、『昨日星を探した言い訳』とか読むとやっぱりそこに目が行く。プラトニックというか、綺麗な言葉で綺麗なやり取りをしている。シンプルな言葉でも、そこに至るまでの思考を突き詰めているから何重にも重みがあって、それはそれで感じることがないでもないが、魅力であるのは間違いないと思う。そこにリアリティを与えているのが咲良田や階段島のような箱庭世界なのだろう。北山猛邦作品を語る際にたびたび使われる「純粋トリック空間」(『城』シリーズ一冊も読んだことないのにそのワードを使うなとお思いのことでしょう、誠に申し訳ございません)に似たものが、河野裕作品における箱庭だと思っている。その上で、この箱庭世界を舞台として以上にとことん使ってやろうという気概が素晴らしく、どの作品でも感じていることだが個人的に一番肌に合っていたのは「サクラダ」だった。

一方で、河野裕の文章の情報量の多さには苦手意識がある。前述したように、シンプルだけど深い意味をまとった言葉は、同じ単語でもその都度まとっている意味が違う。それも何度も反復する、あるいは言い回しを変えて語るため、何度も混乱させられた。魅力であることは百も承知であるが、もう少し簡潔な文章で読みたかった。

 

自分が好きな人については都度都度話しているが、相麻菫もまさにそうだった。

避けられないものとして他者と自らの人生の到達点を見せられ、大切な他者の幸せを優先したこと、その隣に自分がいないことのやるせなさに押しつぶされそうになっても未来視を持つ意味と役割に徹したこと、最後の最後にちょっぴり駄々をこねてしまうこと、そういった本音と建前の折り重なりと思いがけない発露がなによりも魅力的だった。

「本当は伝言なんて大嫌い。これからは、ケイ。私の声を聞いて」*1

この台詞もよかった。「あの言葉は嘘だった」と伝えることで相麻菫は物語に幕を引いた。幕を引いたのが相麻菫だったことが嬉しかった。同時に、声を聞いてとはつまり、対等な場所に立ったという宣言でもあり、ケイに恋をしていた過去と決別した瞬間でもあると感じた。僕の心の片隅で澤村・スペンサー・英梨々が拍手をしている。

 

らしいです。あと、送ってくれてありがとう。

*1:少年と少女と正しさをめぐる物語 p359