TVアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の感想

TVアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の最終話が放送されてから二日が経ちました。正直未だに興奮が抜けきっていないし、昼夜アニプレ公式YouTubeで結束バンドのライブシーンを流し続けている。原作を読んだきっかけは『シオリエクスペリエンス』を貸したサークルの先輩からおすすめされたことだった気がする。主人公四人の名前が僕の大好きなASIAN KUNG-FU GENERATIONから取られていたことも導線になった。最終話はまだ一回しか見ることができていないし、ちゃんと感想を書くならあと何週かするべきだと思うが、とにかく今の感情のまま何か書き留めておきたかった。

 

サブタイトルにアジカンの曲名を使っていることについて、2話くらいまではなんて見え透いた目配せなんだと鼻白んで見ていたが、それ以降はかなり見え方が変わって、むしろどんな次はどの曲なんだと楽しみになっていった。アジカンのGt.vo.である後藤正文が自身のnoteで「いわゆるロックをある種の不良性から奪還したことはひとつの成果なのではないかと『ぼっち・ざ・ろっく!』を見ながら思った」と述べていた。アジカンへの目配せは、ただ原作者がファンである以上の文脈を有していて、それは恐らく彼女らと同じくらいの年齢のときに当事者としてロックを聴いていた人だけが有している文脈ではあるものの、その点は作品でしっかりと描かれていたと、先程言ったような当事者性をそれほど持っていない私でも感じとることができた。

型伝研終わったら(終わらないが)やりたい。

 

アニメ化では特に後藤ひとりの視点に重きを置いて、彼女の感情に沿った物語の再構築が行われている。最終話まで見終わってからだと、かなり思い切ったことだったなと感じる。一人の人間に寄り添い、その人の目線で世界を描くことは、主人公個人の成長譚だと取られかねない(絶対に諸説あると思うが、傍からはそう見えるよねということにしておいてください)(もちろんひとりの変わりたいという思いもまたこの作品の軸なのは間違いない)。しかし山田リョウが固定観念的な「バンドらしさ」ではなく「結束バンドらしさ」に拘ったことや、ひとりがこの四人でちやほやされたいと言ったことなど、結束バンドのメンバーは皆この四人で成長していくことを強く掲げている。ひとりにフォーカスした結果、彼女から見えるもの、彼女の心中はそれはもう隅から隅まで我々に開示されていて、見えすぎているからこそ彼女が見落としているものの存在に目が向く。彼女の努力は自分よりも結束バンドのためであり、その結果少しづつ自分が成長していることに恐らく彼女は気づいていない。でも彼女の周りには、それに気づかせてくれる人たちがいる。それは美しいことだと思う。音楽がテーマの作品のアニメ化なのであればなおさら、音で伝えられることは音で伝えてほしい(『シオリエクスペリエンス』は漫画なのに音で伝わってくるので凄いんスよ)。本作品の演奏シーンではそれらが徹底されていた。うまくいかないライブでは、音ズレした演奏、上擦ったボーカル、その後一歩踏み出すようにエフェクターを踏んだ後藤ひとりのギターソロによって安定感を取り戻す三人が、恐らく音だけを聞いていても何が起こったか理解できるだろう。そうした明らかに音が変わる瞬間には、今までひとりの感情を追ってきた故のカタルシスが存在する。

このブログを書いている間にアマプラで12話の配信が来ていたので見ました、ありがとう……。喜多ちゃん、『星座になれたら』の歌詞を初めて読んだときどうおもったの!?誰からも愛される人気者でありながら、そうあることしか出来ない自分を凡庸だと悩んでいた。文化祭ライブを通して、喜多ちゃんの努力の原動が自分が焦がれたかっこいい後藤ひとりをみんなに見てほしい&上手くなった自分の演奏をひとりに見てほしいという強烈なエゴだったこと、その上で『星座になれたら』という、ひとりから見た結束バンドのメンバーへの羨望と取れる曲が翻って喜多ちゃんの心情として聴こえてくることがあまりにも綺麗で、最終話以降ずっと頭の中で流れ続けている。自分のバンドものへの評価の甘さというか、嗜好性というか、それはコミュニティと居場所の話だと認識してしまうからだろう。音楽性の違いで解散なんて文言があるが、極論を言えば音楽性が完全に一致する集団なんてないだろう(だってそれはその人の人生なんだから)。本当に音楽性だけで成り立っているバンドももしかしたらあるかもしれないので強くは言えませんが、食い違うものがあっても、それでも共に音を奏でようと思える何かがそのコミュニティにはある、そこを安寧の場所と捉えていることにかなり脆弱性がある。要するに私は、久遠寺邸でバンドをやってほしいんですよ、青子はギター弾けるし、有珠はロックの本場イギリス出身だし。

 

話を少し戻します。モノローグが与えられたことで、彼女の奇行に走るまでの思考回路が提示され、ギャグシーンだけが浮くことなく存在できた。同時に、いわゆるキラキラした青春や陽キャを記号化して茶化すような描写をひとり個人の脳内の出来事として限定すること(それらに対してのひとりのスタンスは「私には無理だ」だった)ができ、他の青春のあり方を否定しなかったことは、とても大事な事だと思う。だってそこを蔑ろにしてしまうと、かつてロックが持っていたドレスコードを形を変えて振りかざすことになってしまうから。

 

そんなこんなで余韻に引っ張られながらこのブログを書きましたが、多分言語化できていないだけでまだまだ話したいことは自分の中にたくさんあるように思います。何度だってWatch Partyがやりたい。もう終わるので最終話のラストの話をします。ライブシーンをラストに持ってくるのではなく、新しいギターを手に日常に戻っていくひとりを映して終わる。EDテーマに沿った粋な終わり方だと思いませんか、世界は転がっているから。