2024/4/14 筋トレの成果物、まほよコラボおめでとう

 現在、『型月伝奇研究センター』という同人サークルで『批評理論を学ぶ人のために』(小倉孝誠[編] 世界思想社)の輪読会を行っている。参加者一人一人に担当の章が与えられ、簡単なレジュメと実践が任される。私の担当はメディア論だったのでレジュメと実践を用意していった。私は批評もといメディア論の素人なので、ヴァルター・ベンヤミンやフリードリヒ・キットラーの成果を本を片手にまとめながら、手探りで恐る恐る実践をしてみたのだがせっかくなのでサークルの宣伝も兼ねて投稿しちゃおう!ということで久しぶりの更新になります。

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2023年良かったコンテンツ

 お久しぶりです。虚無です。思えば長らくブログを更新してない! となり、触れたコンテンツも少ないなかで、少ないならブログ書くかと思い立ち、簡単にですがコメントを書いてみました。本当はもっと腰を据えて書くつもりだったのですが気付いたら12月28日……

  下半期は元気を取り戻し、新しいコンテンツにいくつか触れることが出来たので、来年はこの調子でドシドシやっていきたい。

 

四季大雅『バスタブで暮らす』  

 四季大雅作品は『わたしはあなたの涙になりたい』を読んだことがあったが、こちらの印象はあまり良くなかった。私は所謂難病ものに対してはかなり懐疑的というか、あけすけに言うなら苦手な作品群だ。あまり苦手なものの話をしたくないのでここでは濁すが、この作品では「美しい物語を作って欲しい」と病に侵される当事者が語るのだ。当事者にそう言われたら我々読者はどうすることもできない。その点は不満だったものの、それでも時折居住まいを正して読んでしまう迫力のある描写が多かった。

『バスタブで暮らす』はそういったはっとさせられる場面がさらに増えていた。体に居座る漬物石、能面が張り付いて見えてしまう他者の顔、森見登美彦もかくやというくらい癖のある家族たちなど、就職先でズタボロになった主人公の生活模様や世界の見え方が戯画的に描かれる。バスタブの中から世界の様々な場所に手足が伸び、混ぜっ返し、しかし明確に宝を掴んで帰っていく、そんな力強い物語だった。

 

鴨志田一Just Because!

 青春と呼ばれる時間におけるロスタイムのことは大好きですが、まさかロスタイムから始まる物語があるなんて思ってもないじゃないですか。高校三年生の三学期という時間は、どうしても将来の自分について考えることを強制し、全員が何かを急いでいる。その中でも一つここを区切りにしようという意思が偶発的に絡み合ってとてつもない渦を作り出していた。そんな渦に巻き込まれてしまった小宮恵那さんの輝きは凄まじかった、小宮恵那さんになりたい。

 

 

京極夏彦陰摩羅鬼の瑕

 1年か2年ぶりに京極堂シリーズを読んだ、めちゃくちゃ面白かった。『姑獲鳥の夏』の対称となる作品というか、関口巽だけが由良昂允という人間を正しく捉えていた中で、「トリックも何も無い」というシリーズにある程度共通するであろうコンセプトに過去一忠実な構図が深く刺さった。毎回京極堂シリーズではお馴染みのメンバーとは別に、部外者とも当事者とも言えない微妙な立ち位置で事件を眺める配役の人がいるが、彼もシリーズで一番好きかもしれない。

 

西尾維新『戦物語』

 物語シリーズが「○○(任意の作品)以降は蛇足」だとか、「惰性で続いている」みたいな言説は、ある程度は妥当な評価であるように私も思う。『終物語』以降の作品にファンサービス以外の何があるのかといわれると、答えに窮してしまうのも認めよう。でももうそんなことは私にとってはどうでもよくなっていて、年に一回阿良々木君に会えるだけでうれしいのだ。皆さんがご自身の旧友に数か月か、あるいは数年ぶりに再会した場面を想像してみてほしい。思い出話に盛り上がったり、最近あった面白い出来事とか、たわいもない近況を話し合ったり、人生の話でしんみりしたり、それはきっと楽しいはずだ。私にとって『物語シリーズ』の最新刊を読むということはそういう行為に近い。だから正常な評価ができるはずもない。本作の内容はいたってシンプルで、戦場ヶ原ひたぎと結婚した阿良々木暦が怪異関係の依頼がてらに新婚旅行に赴き、彼の陰に住む忍野忍との関係を問い直すという話だ。実際のところ怪異はほぼ出てこないし、何か大きな事件が起きるわけでもない。しかし、最後の景色が抜群に良かった。阿良々木と戦場ヶ原は旅の最後、星を見に行くも天候が悪かった。見えないはずだったのに、いつの間にか二人の頭上には満天の星空が広がっていた。それは何故なのか。私がこの作品を傑作だと感じるのは、これまで『物語シリーズ』を読んできた蓄積によるものだ。だが、その蓄積を的確に刺激するのもまた技巧なのではないだろうか。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。

 

https://https://x.com/kangairureplica/status/1736324831761817927?s=46&t=jvgL0IEYDiL1Eaz5CuaTDQ

『俺ガイル研究会』さんに寄稿させていただきました。今読めて本当に良かったです。

わたしの100冊(100作)

 

所属している文芸サークルの企画横流しです。今まで生きてきた中で影響を受けたり、特に好きだったり、あるいは何かよくわからないけど印象に残っている100作。触れた順番で挙げたつもりだけど、正確ではないかもしれません。わたしという人間のことが少しでも伝わると嬉しいです。

 

*時間があるときに一作品ずつコメントを書いて更新するかもしれません。

「きっと十年後、この毎日を惜しまない」

米澤穂信氷菓

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TVアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の感想

TVアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の最終話が放送されてから二日が経ちました。正直未だに興奮が抜けきっていないし、昼夜アニプレ公式YouTubeで結束バンドのライブシーンを流し続けている。原作を読んだきっかけは『シオリエクスペリエンス』を貸したサークルの先輩からおすすめされたことだった気がする。主人公四人の名前が僕の大好きなASIAN KUNG-FU GENERATIONから取られていたことも導線になった。最終話はまだ一回しか見ることができていないし、ちゃんと感想を書くならあと何週かするべきだと思うが、とにかく今の感情のまま何か書き留めておきたかった。

 

サブタイトルにアジカンの曲名を使っていることについて、2話くらいまではなんて見え透いた目配せなんだと鼻白んで見ていたが、それ以降はかなり見え方が変わって、むしろどんな次はどの曲なんだと楽しみになっていった。アジカンのGt.vo.である後藤正文が自身のnoteで「いわゆるロックをある種の不良性から奪還したことはひとつの成果なのではないかと『ぼっち・ざ・ろっく!』を見ながら思った」と述べていた。アジカンへの目配せは、ただ原作者がファンである以上の文脈を有していて、それは恐らく彼女らと同じくらいの年齢のときに当事者としてロックを聴いていた人だけが有している文脈ではあるものの、その点は作品でしっかりと描かれていたと、先程言ったような当事者性をそれほど持っていない私でも感じとることができた。

型伝研終わったら(終わらないが)やりたい。

 

アニメ化では特に後藤ひとりの視点に重きを置いて、彼女の感情に沿った物語の再構築が行われている。最終話まで見終わってからだと、かなり思い切ったことだったなと感じる。一人の人間に寄り添い、その人の目線で世界を描くことは、主人公個人の成長譚だと取られかねない(絶対に諸説あると思うが、傍からはそう見えるよねということにしておいてください)(もちろんひとりの変わりたいという思いもまたこの作品の軸なのは間違いない)。しかし山田リョウが固定観念的な「バンドらしさ」ではなく「結束バンドらしさ」に拘ったことや、ひとりがこの四人でちやほやされたいと言ったことなど、結束バンドのメンバーは皆この四人で成長していくことを強く掲げている。ひとりにフォーカスした結果、彼女から見えるもの、彼女の心中はそれはもう隅から隅まで我々に開示されていて、見えすぎているからこそ彼女が見落としているものの存在に目が向く。彼女の努力は自分よりも結束バンドのためであり、その結果少しづつ自分が成長していることに恐らく彼女は気づいていない。でも彼女の周りには、それに気づかせてくれる人たちがいる。それは美しいことだと思う。音楽がテーマの作品のアニメ化なのであればなおさら、音で伝えられることは音で伝えてほしい(『シオリエクスペリエンス』は漫画なのに音で伝わってくるので凄いんスよ)。本作品の演奏シーンではそれらが徹底されていた。うまくいかないライブでは、音ズレした演奏、上擦ったボーカル、その後一歩踏み出すようにエフェクターを踏んだ後藤ひとりのギターソロによって安定感を取り戻す三人が、恐らく音だけを聞いていても何が起こったか理解できるだろう。そうした明らかに音が変わる瞬間には、今までひとりの感情を追ってきた故のカタルシスが存在する。

このブログを書いている間にアマプラで12話の配信が来ていたので見ました、ありがとう……。喜多ちゃん、『星座になれたら』の歌詞を初めて読んだときどうおもったの!?誰からも愛される人気者でありながら、そうあることしか出来ない自分を凡庸だと悩んでいた。文化祭ライブを通して、喜多ちゃんの努力の原動が自分が焦がれたかっこいい後藤ひとりをみんなに見てほしい&上手くなった自分の演奏をひとりに見てほしいという強烈なエゴだったこと、その上で『星座になれたら』という、ひとりから見た結束バンドのメンバーへの羨望と取れる曲が翻って喜多ちゃんの心情として聴こえてくることがあまりにも綺麗で、最終話以降ずっと頭の中で流れ続けている。自分のバンドものへの評価の甘さというか、嗜好性というか、それはコミュニティと居場所の話だと認識してしまうからだろう。音楽性の違いで解散なんて文言があるが、極論を言えば音楽性が完全に一致する集団なんてないだろう(だってそれはその人の人生なんだから)。本当に音楽性だけで成り立っているバンドももしかしたらあるかもしれないので強くは言えませんが、食い違うものがあっても、それでも共に音を奏でようと思える何かがそのコミュニティにはある、そこを安寧の場所と捉えていることにかなり脆弱性がある。要するに私は、久遠寺邸でバンドをやってほしいんですよ、青子はギター弾けるし、有珠はロックの本場イギリス出身だし。

 

話を少し戻します。モノローグが与えられたことで、彼女の奇行に走るまでの思考回路が提示され、ギャグシーンだけが浮くことなく存在できた。同時に、いわゆるキラキラした青春や陽キャを記号化して茶化すような描写をひとり個人の脳内の出来事として限定すること(それらに対してのひとりのスタンスは「私には無理だ」だった)ができ、他の青春のあり方を否定しなかったことは、とても大事な事だと思う。だってそこを蔑ろにしてしまうと、かつてロックが持っていたドレスコードを形を変えて振りかざすことになってしまうから。

 

そんなこんなで余韻に引っ張られながらこのブログを書きましたが、多分言語化できていないだけでまだまだ話したいことは自分の中にたくさんあるように思います。何度だってWatch Partyがやりたい。もう終わるので最終話のラストの話をします。ライブシーンをラストに持ってくるのではなく、新しいギターを手に日常に戻っていくひとりを映して終わる。EDテーマに沿った粋な終わり方だと思いませんか、世界は転がっているから。

「サクラダリセット」を読んだ

ある日、自宅に「サクラダリセット」が送られてきた。

貰ったからにはちゃんと感想を伝えないとなという気持ちになったのでこのブログを書いている。といってもまあ、各巻ごとの短い感想はTwitterで呟いたりしていたし、全体の感想を軽く書き散らすだけなので、新規性のある読みとかは期待しないでください。

 

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