魔法使いの夜×Fate/Grand Orderコラボレーションイベント「魔法使いの夜アフターナイト/隈乃温泉殺人事件 ~駒鳥は見た! 魔法使いは二度死ぬ~」(多分)最速レビュー&感想

 

 

はじめに

 

 信じてもらえないかもしれないけれども、『Fate/Grand Order』と『魔法使いの夜』コラボが発表されたとき、私は何も心配していなかった。それは、奈須きのこTYPE-MOONに向けられた信頼というよりも、私自身の心持だった。改変や、クロスオーバー、メディアミックス、あるいはボイスが付くことに対して「思い出を汚された」「世界観に傷をつけられた」という怒りの感情は、様々なコンテンツでよく目にする。厳密な意味で個々の作品体験はそれぞれ異なるから、彼らのその感情を否定する気はない。私は私で、せっかくならば「出来ることをやって」からそういう感情と相対したいと思っている。ではここで言うできる事とは何なのか、それは差し出された物語を隅から隅まで読むことなのではないか。少なくとも私はそう考えている。例えば、『型月伝奇研究センター』はそうした考えのもとに結成されたサークルだ。そしてそこで書いたいくつかの文章、特に『Binder.第二号 特集=魔法使いの夜』に載せた文章は作品を自らの中に位置付けるためのものだった。この作業を経たからこそ、私は凪の心でまほよコラボを迎えられた。

 個人的な話が長くなってしまったが、何を言いたいかというとつまり、どんなシナリオが出されていたとしても、今こうしているように感想を綴り、心から褒めたたえていたに違いないということだ。それでも、やはり、今回のコラボシナリオが一切のうしろめたさ無しに「最高だ!」と言える物語だったことが堪らなくうれしい。それは『魔法使いの夜』を愛する多くの人がそうだったのではないか。

 

 

アフターストーリーとして

 心配はしていなかったと言ったものの、最初どういうテンションで読めばいいかは全く分からなかった。何せ「アフターナイト」、つまりアフターストーリーだ。完結していない物語のアフターストーリーって何だろう。次に見えたのは「殺人事件」という言葉だ。アフターストーリーで殺人事件って何だろう。そんな疑問から目を背けるように周辺情報を漁った。奈須きのこの本棚にあったミステリと照らし合わせてみると、旅館だから京極夏彦の『鉄鼠の檻』かな、いや温泉なら『塗仏の宴』のあれかもしれない。ひょっとしたら殊能将之の『美濃牛』みたいなテイストになるのかな。……白状しよう、発表時点で私はかなり心配していた。

 しかし、実際読んでみると見事なまでにアフターストーリーだったのだ。アフターストーリーの強みというか、効力の大きな部分は本編と双方向にストーリーとキャラクターを補強して、読者の記憶にある思い出を刺激し、懐かしさという残響で満たすことができる点だろう。思い出してみる、あるいは『魔法使いの夜』を起動し参照する。星、渡り鳥、都市、文明、約束、自己存在、矜持、責任、義務、世界が回るということ。蒼崎青子、静希草十郎、久遠寺有珠、我々が『魔法使いの夜』を読み結い上げた彼らの人物像。我々はそのパーツを必死に探したはずだ。そして恐らく、拾い上げられたいくつかの要素の中で『魔法使いの夜』本編で提示されたものと全く同じ形をしていたものは一つもなかっただろう。

10年間何の動きもなかったコンテンツに、初めて投じられた石であるこのシナリオでこんな攻めたこと言っていいんだ。

  思い出というぬるま湯に浸り続けることを強く糾弾するようなこの言葉が誰に向けられたものかは明白だ。青子らとて変わるのだから、我々も変わらなければならない。ありきたりなメッセージだが、その陳腐さを冷笑する隙も与えないほどの強引さが、続編をすっ飛ばしてアフターストーリーを書いたこのイベントにはある。それでもやはりめちゃくちゃだと感じる部分はあるけれど。

 とはいえ’’存在しない続編’’の空白部分を、残響を生み出すための弦の振れ幅に使った起点と思い切りの良さは素直に評価できるポイントだ。我々はこの空白部分に思いを馳せ、そこで起きたであろういくつかの出来事を想像する。未知の時間を通過した、見覚えのある人たちの発する言葉は少しばかり響きが変わってくる。

 例えば、久遠寺有珠に未来を語らせるなんてものは分かりやすく感動的な作劇だ。しかし、このやり取りは歴史という過去を踏まえていること、マシュという他者への語り掛けであること、夢という抽象的で希望的観測でしかない概念に仮託された思いがあると有珠が知っていることを端的に表し、ただ単に「有珠が未来の話をしている」以上の響きを持っている。

 また別の例を挙げるとするのであれば、鳶丸の発言が分かりやすい。

魔法使いの夜』本編で誰かが「今が最高!」と言ったところで、それは単なる刹那主義として青子の在り方によって陳腐化していただろう。けれども、「楽しかったあの時」である『魔法使いの夜』の時間を経験し、その黄金時代に自らの手で幕を引いて「今」にいる人が、「今」に拘ることを部分的に肯定することは、刹那主義とは言えないだろう。

 加えて、こうした点に見られるキャラクターのアップデートは恐らく続編だけで行われたものではない。さらにその先を彼らが生きた故に辿り着いた人生観だ。こういう時、私は奈須のとある発言が思い浮かぶのだが、一旦保留にして、次の話に移りたい。

 

星に願いを

 コラボシナリオのテーマを一つ上げるとすれば’’願い’’だろう。思えば、星から真っ先に連想されるのは「願う」「願い」であっても不思議ではない。にもかかわらず、『魔法使いの夜』ではあまり存在感がない。これは単純な話で、「願う」というのは他力を期待することだからだ。他力を期待するということは、ある意味究極の他者性と言えないだろうか。そう、『魔法使いの夜』は蒼崎青子の願いが却下されるところから始まる物語だ。

 『魔法使いの夜』で「願う」「願い」「願った」という言葉が使われていた個所は合計33件、その多くは「お願い」などの、会話の中で他者に投げかけられるものだった。

……人殺しは、いけない事だ。

子供じみた素直さ。その願いが彼にとってどれほど尊いものなのか、憎らしいほど感じ取れる。

その時まで、嫌ってもいいと。

そんな言葉を、少女は今まで、いや、一度だけ、強く願った事があって―――

 そうでない場面だとこの二つくらいではないだろうか。ワード検索ができるわけでもなく、直近で再プレイしたのが半年ほど前なので抜けがあってもご容赦いただきたい。

 有珠の場合は分かりやすく他者の存在が立ち現れているが、草十郎の言葉はどうだろう。「人殺しは、いけない事だ。」という言葉には、やり直せない過去の出来事に対して、現在の在り方によって遡及的に干渉しようとするための規範的な面がある。自らがこうありたいと思うことは「望み」ではないだろうか。にもかかわらず、ここで「願い」という言葉が使われているのは、これが青子という他者に向けられた言葉であり、自己言及的なその言葉を他ならぬ青子が草十郎の「願い」であると受け取ったからだ。「願い」というものはこのような面でも他者と表裏一体なのかもしれない。そして『魔法使いの夜』で願いが表出しないのは、三人の他者性が芽生えるまでの話であるからなのではないだろうか。

 ここで再び、コラボシナリオに戻ろう。有珠は普遍的な事実として「この世にオンリーワンの願いはない」と語る。そして、こちらもまた普遍的な思い込みとして「自分の願いは一番であってほしいと願う」と。

魔法使いの夜』では願いの他者依存的な側面はある種の尊さを孕んでいることが、副産物的に示されたのだと思っている。それを踏まえたうえで、コラボシナリオで願いは誰しもが持っていて貴賤のないものだと肯定的に描く。鳶丸は木乃美に自らの願いを否定する必要は無いと言い、草十郎は「滑稽だ」と笑った、あるいは他者の願いを自らの自己実現のための踏み台にしたキャンディマシンにらしくない怒りを向ける。これは多様な願いの在り方、もっと言えば多様な人間存在の在り方を知った後でないとたどり着けない答えだろう。

  木乃美の願いは叶わなかったが、その行為がもたらした些細な成果を知ることで、彼の生は肯定された。思い出も願いも、現在を生き未来へ進んでいくための糧にするために葬り去る。「星は弾けるものじゃなくて、回るものだし」と言って前に進んでいく。

 ここで夢という、実現可能性の不確かさ故に未来の時間まで解決を保留する概念が彼の背中を押す。木乃美は水嶋まさごから夢を受け取り、これから先を生きていくための核とした。この結末の構図を、久遠寺邸の三人が過去共にあり、これからの人生を自分一人で歩いて行く選択を取ったことパラレルであると捉えるのは牽強付会だろうか。

 

おわりに/人生が続くということ

 項を立てて書いてきたが、結局のところ内容は同じで、つまり作品世界を生きる彼らの人生は続くということである。ここで、先述した奈須のとある発言を引用したい。

その「ストーリーのテーマ」とは別に設定するのが、「キャラクターのテーマ」です。端的に言えば、「キャラクターのテーマ」とは「人生」です。このキャラクターは自分の人生を最後まで生きて、何を得たのか? このキャラクターは何をして、何を打ち立てたのか? そして最期の時、このキャラクターは一体何を言うのか?*1

極論になってしまいますが……たとえば、「俺の人生は『エルデンリング』をクリアするためにあるんだ!」と言っているキャラが『エルデンリング』を遊び終えてしまったら、別にもうそのキャラは出てくる必要はないんですよ(笑)。*2

 これはあくまで、奈須が創作をする際の規範意識だ。恐らく、人の人生はこのように単純な出発点と到達点で構成されていない。不可逆の変化に見舞われるし、一つのテーマを達成したところで、別のテーマが生まれるかもしれない。

 しかし奈須もそのことはある程度認識したうえで、こうした一定の規範を強いているのだろう。でなければ、今回のオールスターシナリオも、アフターストーリーも生まれ得ない。何なら、型月伝奇世界というシェアワールドすら構成しなかったはずだ。奈須は物語が閉じた後もキャラクターの人生が否応なしに続いていくことに自覚的な作家である。なので、今後もまほよコラボのような、我々が生きる世界と同様の時間の連続性の中に生きる彼らとまた会うことができるだろう。そう、草十郎が有珠と、我々が知らない時間で交わしていた約束のように。

*1:【特別座談会】『FGO奈須きのこ ×『Fate/EXTRA新納一哉 ×『FF14』石川夏子 ― “人の心を狂わせる物語”の生み出し方を聞く

*2:【特別座談会】『FGO奈須きのこ ×『Fate/EXTRA新納一哉 ×『FF14』石川夏子 ― “人の心を狂わせる物語”の生み出し方を聞く