『冬期限定ボンボンショコラ事件』について

 

 私にとって〈小市民〉シリーズは、面白い作品ではあったものの、思い入れのある作品ではなかったはずだ。「思い入れのある」というのは、どこかの部分で自らに引き付けて読んでしまうであったり、あるいはそれが何か自分にとっての契機になったことをひっくるめての言葉だ。例えば〈古典部〉シリーズはどうだろうか。私は『氷菓』を読んで、古典部の彼らのように世界を眼差したいと思うようになった。人間存在が「○○だから○○である」という等式的な枠組みに収まりきらないものであると知った。昔〈小市民〉シリーズを読んだとき、そうしたエウレカは訪れなかった。今回、過去作の再読を経て新たに発見したものも多く、細部での印象は更新されたものの、全体を通して得られた感触はやはりというか、あまり変わらなった。

 ところが、だ。私はシリーズ完結作となる『冬期限定ボンボンショコラ事件』を読んで深く感動した。そしてその感動は、先述した〈小市民〉シリーズへの印象の薄さからすると説明がつかないと、少なくとも私はそう感じた。勿論思い入れだけが作品の感想に影響するのではない。何か単一の答えがそこにあるわけでもない。それでも、この感動は何に起因するものなのか、私の中でどのように作品観が刷新されたのか。それを確かめるために様々な人の感想を読んだが、結局のところ私自身が手を動かし考えるしかないということで、このブログを書いている。なお、その過程で読んだ感想のいくつかは、考えていくうえでの前提となった部分も多くあるため先に共有しておく。

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 上記の記事でも度々引用されているように、やはりこの言葉から始める他ないのではない。何なら、私が〈小市民〉シリーズにピンと来ていなかったのは、『冬期限定』でいたく感動してしまったのはこの一文に集約されているのではないか。

あなたちょっと、わたしを冷たく見積もりすぎじゃないの!

米澤穂信さよなら妖精』(創元推理文庫

何より私が、二人を冷たく見積もりすぎていた。

 

 どこかの誰かがポストだったかブログだったかで、「小鳩くんは『日常の謎』を発見しえない」というようなことを言っていた気がする。もっともな感想だと思った。例えば、〈古典部〉シリーズで古典部の4人がまなざし、汲み取ろうとした一連の営みに表象されているような、自らを取り巻く世界への敏感さは小鳩常悟朗には、そして小佐内ゆきにはないものだった。また、小鳩にとって謎解きは、折木のそれとは違い、謎を解くこと自体が目的であり、楽しんでいた。『秋期限定』までは、それが危うさであると思っていたが、『冬期限定』で描かれた過去の失敗を見るに、論理に淫し、「小市民」という在り方にひけらかしたいと言う欲求抑え込んでいたこと(それは不完全であったけども)は極めて戦略的だったように感じる。『冬期限定』で語られた、小鳩が失敗と捉えている過去の事件は、「考えることができるだけ」の自分が人間存在というものへ踏み込むべきでは無いと、小鳩が(小佐内も同様に)思い知るものだった。『春期限定』から『秋期限定』までの小鳩の振る舞いは、そうした点に意図的に距離が置かれていたのだと感じた。すべての元凶たる過去の事件に対して、二人は回想で再び向き合うことになる。そしてそれは、「考えることができるだけ」である自らの欠損と向き合うことだ。そう考えたときに、シリーズ通して提示された「小市民」というスローガンは、そうした欠損を補うためのシュミレーション的な思考だったように思える。

 

『秋期限定』を再読して私が感じたのは、他者に観察された自己像が自らの認識する自己像とズレていたときの二人の反応が非常に軽く、その軽さが二人の危うさである、ということだった。しかし『冬期限定』を経てこれは、一般性を獲得せんがためのトライアンドエラーとして処理されている、それ故の軽さではないかと思うようになった。「小市民ならこうするだろう」という二人の行動指針は、額面的な意味での「理想の自分」よりも、一般的な共感性や他者性というものに対しての、もっと切実な希求であったのではないか。

 ここまで『冬期限定』において、私の中で更新された様々ポイントを挙げたが、その結果浮かび上がってきたのは、等身大(敢えてこの言葉を使いますが)の高校生だった。『秋期限定』で二人が出した結論は私にとって拍手喝采に足るものだった。レッテルを通り越して自分を眼差してくれる人と共にあることは、しかし、二人にとってはスタートラインだったのだろう。『冬期限定』の終章ではそれを踏まえたうえで、『秋期限定』の構図を習いつつ、さらに更新された結論が出されている。もはや「小市民」という言葉は必要ない。狐であることと、狼であるという歪みは、二人にとって一人でも抱えられるものとなったのだ。小鳩は一人で過ごすであろう来年の予定を語る。しかし、そのうえで二人で歩んでいくのだ。月並みな言葉だが、二人が生きていて良かったと心から思う。

 

 小佐内は京都にて小鳩を待つらしい。この先、二人はどんなお店でどんなお菓子を食べるのだろう。私は神宮丸太町にある「ミスリム」でスコーンを食べる事をおすすめします。

 

 

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